高梁(市の中心部)は周囲をぐるりと山に囲まれた小さな盆地の町で、真ん中を高梁川がゆっくりと流れています。
昭和3年に伯備線が通るまでは高梁川を高瀬舟が行き交い、物流の中心地としてにぎわった町です。
また、中心部は備中松山藩の城下町でもあり、武家屋敷や商家など今でも往時の名残りを残す古い町並みをあちこちでで見ることができます。
寅さん(男はつらいよ)のロケ地に2度なったことでも有名な町です。
この地は元々備中松山藩でしたが、伊予松山との混同を避けるため明治新政府から名称の変更を要請され、「高梁川」から取った“高梁”という名称が町の名前となったということです。
石火矢町ふるさと村
備中松山城のある臥牛山のすぐ麓で、約250mに渡って立派な門構えの武家屋敷などが立ち並ぶエリアです。
旧折井家・旧埴原家ではお屋敷が公開されていて、当時の武士の生活を感じることができます。
「石火矢町ふるさと村」の南側の入り口付近です。
ちょっと木の陰になっていますが、中央右の丸っこい山の頂上付近に「備中松山城」があります。
左側は伯備線の線路です。
武家屋敷通りの中央付近から南側方向。
内側の建物はほとんどが新しい建物に変わっていますが、塀の作りなどはいい感じです。
マンホールのフタに登場の備中松山城 猫城主「さんじゅーろー」。
旧折井家
江戸時代後期の建物で、160石の馬廻り役の武士が住んでいたお屋敷だそうです。
旧埴原家
岡村邸
男はつらいよの第8作「寅次郎恋歌」(1971)・第32作「口笛を吹く寅次郎」(1983)で、
博(前田吟)の実家の諏訪家として登場しました。
紺屋川美観地区
「紺屋川(こうやがわ)美観地区」の実質的なエリアは伯備線の線路のあたりから、川が「高梁川」に流れ込むまでの300m程度だと思われます。
川の両側を車道が走り商店などが立ち並ぶ様子はミニ城崎って感じの風景。
「日本の道100選」に選ばれているということですが、他に選ばれている道には大阪の「御堂筋」や「神戸淡路鳴門自動車道」などがあって、選択の基準がよくわかりません。
近隣の倉敷と比較されることになると思う“美観地区”という名称も含めて重荷にはなってませんか。思わず余計な心配をしてしまいます。
あと、かかっている橋に「伊賀谷川」の表記がありましたが、川の正式名称はなんなんでしょう。
紺屋川にかかった伯備線の鉄橋。ここから高梁川までの約300mが美観地区です。
まったくの平面なのでわかりにくいですが、電車が鉄橋を通過中です。
この橋を電車が通るたびに大きな音が町に響き渡ります。
川沿いには歴史を感じさせてくれる場所もいくつかあって、
こちらは明治22年建築の岡山県内では最古の教会「高梁基督教会堂(たかはしきりすときょうかいどう)」。珍しい洋風建築です。
備中松山藩時代の藩校「有終館」跡。現在は「高梁幼稚園」となっています。
画面中央右の山の上には「備中松山城」が建っています。
「有終館」跡の一角に残る「山田方谷」が植えたとされる松。
一部で桜が並木になっていて、柳や松の木も見られます。
川床も整備されていて、周辺には花もたくさん植えられていました。
懐かしい感じの町並みと柳の相性は抜群です。
川の上に神社があるのも珍しい風景。確か2ヶ所あったはずです。
川が高梁川に流れ込むすぐ手前、国道に面したブロックにあるお屋敷です。
上の4点の写真はつながった一軒の家だと思いますが立派なお屋敷です。
確認するのを忘れましたが、何を商われていた家なんでしょう。
「高梁川」沿いを走る国道に立って美観地区方向を望遠レンズで撮影。
とりあえず今回分のまとめです
はっきり言って派手さはありません。
他のどの町にも負けないこんなすごいものがありますって感じでもないですし、
多くの人が観光目的で訪れるような町ではないかもしれません。
武家屋敷が並ぶ通りだとか、日本の道100選に選ばれた道、必ず倉敷と比較されるであろう“美観地区”など、人によっては物足りなさを感じるかもしれません。
ではなぜそんな町に自分は魅力を感じているんでしょうか。
町では、天空の城と呼ばれる「備中松山城」や大河ドラマ化を目指す郷土の偉人「山田方谷」あたりを中心に売り出そうとしているみたいですが、
自分的には、このお城と偉人を考慮に入れなかったとしても一番なんです。
自分的になんとなく印象がある全国の数百の町の中で、ここ10数年ずっと1位(ちなみに2位は尾道です)をキープしてるんです。
次回の記事の最後に、その理由をクドクドと書かせていただきますので、お暇な方は次回もよろしくです。
“「備中高梁」が好きなんです 2/2”に続く
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