「備中高梁」を紹介するシリーズの2回目です。
前回の石火矢町ふるさと村、紺屋川美観地区に引き続き、今回は頼久寺や薬師院などのお寺や郷土資料館、周辺地域などの紹介です。
大河ドラマ化を目指している地元出身の学者「山田方谷」についても簡単に紹介し、
最後に自分が「備中高梁」を好きな理由をクドクドと書かせていただきます。
※写真下に日付が入っているもの以外はすべて2023年10月に撮影したものです。
頼久寺(らいきゅうじ)
庭園が有名な臨済宗のお寺です。
寺の名前は16世紀の初め頃に寺を再建した備中松山城主「上野頼久」の名前が由来だそうです。
関ヶ原の後この地を任されたのは小堀正次でしたが、その死後は息子の政一が備中国奉行を引き継ぎました。
当時備中松山城は荒れていたため、この寺で政務を執っていたと言われており、有名な枯山水庭園はその頃に小堀政一により造られたと考えられています。
後に小堀遠州を名乗ることとなる大名・小堀政一は茶人・建築家・作庭家などとしても才能を発揮した歴史上の有名人です。
山門を入って左側にある「薬師堂」。
本堂を外側から撮影。
本堂内部。
庫裏から本堂へと向かう通路から枯山水の庭園を撮影。
書院から庭園を撮影。「頼久寺」といえばこの角度です。
周辺の人工物などは生垣で隠し、遠くにある「愛宕山」まで庭が続いているように見せる、見事な借景のお庭です。
中央右側が鶴島で、左のやや奥まったところにあるのが亀島です。
丸窓を額縁風に。
5月の終わり頃には緑の刈り込みの中にサツキの赤やピンクが出現します。
メインの庭は枯山水ですが、書院の裏側の庭には水を張った池がありました。
すぐ西側を走る伯備線の普通列車を撮影。
松連寺・薬師院
松連寺
立派な石垣が印象的なお寺さんです。
遠くから全景を押さえるのを忘れましたが、左右にもずっと石垣が続いています。
石段の途中にあった蔵の白壁に落ちた桜の影。
薬師院
寅さんの第32作「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」で重要な舞台となったお寺です。
色々あって寅さんがお坊さんになって住み着くことになるお寺で、映画では「蓮台寺」として登場します。
酔った住職(松村達雄)を介抱しながら石段を登る娘の朋子(竹下景子)と寅さんが出会う石段です。
朋子の弟役が中井貴一で、その幼なじみ役を杉田かおるが演じていました。
瓦屋根がきれいだったので撮影です。
お寺は高台にあるので、境内からは高梁の中心部を一望できます。
高梁市郷土資料館
高梁市郷土資料館として使用している建物は、明治37年建築の旧高梁尋常高等小学校の本館。
江戸時代から昭和初期にかけて使用された生活用品など様々なもの約3000点を展示しています。
教育勅語です。
🔹開館時間:9時〜17時 🔹休館日:12月29日〜1月3日
その他
市内中心部付近にて
高梁川の土手上を国道が抜けていきます。
花が多い町はいい町です。多分。
高梁のお土産には天任堂の「ゆべし」をおすすめします。
柚子の香り漂う素朴だけど上品な餅菓子です。
アーケードの商店街は他の多くの街と同様にちょっと元気がない感じ。
屋根の複雑な構造が何かのアートのようで美しい。
電車に出会うたびにパチリ。高梁の観光スポットの多くは線路のそばにあるので滞在中何度も電車を見かけます。
「頼久寺」のすぐ下側にあった伯備線の鉄橋。
未成年の喫煙を注意する看板のすぐ裏側、鉄橋の下あたりには大量の吸い殻が。
地元で人気の喫煙スポットなんでしょうか。よくないことですけど何かちょっと微笑ましい。
備中高梁駅の東西自由通路から「特急やくも」を撮影。
駅はホームから階段を上がった2階にあって、西側の出口があるビルには図書館や蔦屋書店、スターバックスなどが入っていて、観光案内所もあります。
周辺地域にて
石州瓦とベンガラ漆喰壁の街並みで知られる吹屋地区です。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されているエリアで、独特な赤い街並みの風景を見ることができます。
高梁の市内ではありますが、備中高梁駅のあたりからは20km以上離れていて、車でも約1時間かかります。
旧吹屋小学校。非常に美しい木造の校舎です。
2012年に廃校。耐震強化を含む解体修理が行われ2022年4月からは観光施設として開館したそうです。
「広兼邸」。ベンガラ関連などで財を成した広兼家のお屋敷です。
映画「八つ墓村」のロケ地になったことでも知られています。
山田方谷について
この地の出身者で、忘れてはならないのが儒者「山田方谷(やまだほうこく)」です。
1805年生まれで、亡くなったのは1877年(明治10年)。幕末の時代を生きた人です。
農家の生まれでしたが、幼少の頃から神童っぷりを発揮し、後々請われるかたちで藩政に関わっていきます。
有名なエピソードとしては、10万両(現在の貨幣価値で約300億円)の借金を抱えて破綻寸前だった藩の財政を建てなおしたこと。にわかには信じられないような話ですが、8年後には借金をすべて返済した上で10万両のお金を残すという大成功をおさめています。
具体的な方法としては藩士や領民に倹約を推奨する一方、癒着などの問題を抱え多額の損失を出していた大阪蔵屋敷を廃止、従来からの産業としてあった煙草や鉄製品などの販路を江戸まで延ばすことなどでお金を稼ぎました。
中でもオリジナル商品「備中鍬」の爆発的ヒットが財政回復に大きく貢献したと言われています。
また、藩札を入れ替えるにあたって旧紙幣を河原で焼いた話などエピソードには事欠かない方谷ですが、江戸幕府の老中首座にまで登り詰めた藩主「板倉勝静(いたくらかつきよ)」からは絶大な信頼を得ており、大政奉還の文案の作成に関わったことでも知られています。
生誕の地である高梁や、晩年を過ごした新見市を中心に大河ドラマ化を目指す動きがここ数年ずっと続いています。
自分が「備中高梁」を好きな3つの理由
観光したり宿泊したりで印象のある町が国内に数百くらいはありますが、
ここ10数年自分の中でのお気に入り第1位はずっと「備中高梁」です。
ちなみに僕の言う「備中高梁」は具体的には市域全体ではなく駅周辺の高梁川と山に囲まれた狭いエリアのことです。
思い込み、勘違い、妄想満載の評価ですがお付き合いください。
好きな理由を3つ、順番にあげていきます。
① 盛り沢山
現存天守がある町は全国でも12ヶ所だけ。それが山の中の小さな町にあるってこと自体がまず素晴らしい。
高梁はその城下町なので武家屋敷など、当時を偲ばせる建造物などがあちこちにあります。
また、昔から物流の中心地でもあったため、商家などが並ぶ街並みなども見られます。
庭園が有名なお寺や川沿いの美観地区などもあって様々な要素が小さなエリアに散りばめられています。
ひとつひとつの建物や風景について見てみると、全国にはそれよりも素晴らしいものがそれこそ無数にあると思います。でも、やっぱり高梁はすごいんです。
わかりやすい例で言うと、アイドルグループなどが似た感じで捉えられたりします。メンバーのひとりひとりにそれほど思い入れがない場合でもグループ全体だとすごく好きって感じたことはないですか。
自分的には高梁はそういう感じの町なんです。
②規模感がちょうどいい
どの範囲をひとつの町として捉えるかはもちろん自由ですが、
自分としては個性があってまとまりのあるエリアをひとつの町として考えたいんです。
特徴的なエリアが複数ある大きな町の場合は分割して考えたいですね。
例えば東京なんかは駅ごとにひとつの町になっている感じですが、
銀座と渋谷はまったく別物だし、新宿なんかはさらに西と東で別の町として考えたいですね。
地方都市、例えば松山の場合だと松山をひとつの町として考えるとイメージがすごくぼんやりとしたものになってしまいます。必然的に道後や三津浜といったレベルで町を考えることになります。
そういう感じで全国の町を比較したときに、備中高梁の規模感が好きなんです。
交通手段は徒歩で充分。ざっと見て回るだけなら半日もあれば充分、ゆっくり見てまわっても1日あれば充分っていう、全体を見渡せる感じのこぢんまり感が心地いいんです。
広過ぎず、狭過ぎずの程よい感じでまとまりのあるエリアって結構貴重なんです。
③時を感じる町
備中高梁はまわりをぐるりと山に囲まれた小さな盆地の町です。
伯備線が通る前は、高瀬舟が主な交通手段だったというので、陸の孤島のような場所だったのかもしれません。
現在、「備中高梁」と外界との接点は大ざっぱに言うと次の3つです。
🟠高梁川 🟠伯備線 🟠国道180号
かつては高瀬舟が行き交った高梁川ですが1926年に鉄道が通った後は物流の中心は鉄道へと変化しました。その後、道路が通り自動車が中心になっていったと考えられます。
で、ここからが本題です。能天気な旅人の思い込み強目の意見ですが、
この町には複数の時間軸が存在するような気がするんです。
かつて賑わった川には、今は自然のゆったりとした時間が流れています。
川の次に時代を担った伯備線は「備中高梁駅」を接点にして現在も人や物を運んでいます。
そして国道。ここが一番のポイントなんですが国道は高梁川沿いの土手上を抜けています。
片側はずっと川だし、反対側にも目立った商業施設などはほとんどありません。
現代の騒々しい時間は町を経由することなく通り抜けていく印象なんです。
多くの歴史的な要素を抱えこみ時間が止まったかのように感じられる町が、現在もいい感じに残っているのはこの国道の位置と無関係ではないはずです。
上記の①〜③、この3つの要素が相まって自分は「備中高梁」が好きなんだなってことをしみじみと感じる今日この頃です。
うざい長文にお付き合いいただきありがとうございました。
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